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セバスチャン・シャバル引退 —オールブラックスが恐れたただ1人の男—

2014/05/07

 パン屋でバゲットを渡してくれるかわいい店員さんも、公園のベンチで数独に励んでいるおばあちゃんも、週末にサッカーボールを追いかけているガキどもも、どんなにラグビーに興味のない人間でも、フランスでは誰もがセバスチャン・シャバルの名前と顔を知っている。フランスでワールドカップが開催された2007年には、当時保健・青年・スポーツ相だったロズリン・バシュローが、「そうね、間違いなく私も『シャバルマニア』の1人ね。有罪を認めるわ。でも、彼を『お大臣のお気に入り』ってからかうフランス代表のチームメイトにはいいネタでしょ」と笑って打ち明けるほどだった。イギリスのセール・シャークスでプレーしていた彼に与えられたあだ名は「Caveman」(直訳では「穴居人」だが、「原始人」のイメージの方が日本人にはしっくりくる)。大会中は、その名の通りのロン毛(おしゃれな意味ではまったくない。ただ伸ばしっぱなしのボサボサ髪)と顔中を覆おうかという髭面のシャバルの変装をしたサポーターがスタジアムに溢れ、シャバルマニアなる言葉まで生まれる一大現象となった。

 

 その人気を爆発させる契機となったのが、2007年夏、ワールドカップ直前のフランス代表ニュージーランド遠征。トップ14の決勝とテストマッチの第2戦が重なったことから、決勝に参加する大半の代表選手を欠きニュージーランドの現地メディアに「フランスC」と揶揄されたチームの中で孤軍奮闘。シャバルの代名詞であるハードタックルでナンバーエイトのクリス・マソエをKOすると、タックルに来た当時世界最高のロックの1人と言われていたアリ・ウィリアムズをはじき飛ばしその顎を逆に粉砕。しばしのストロー生活を余儀なくさせた。そのビデオはユーチューブで330万回以上も再生される大ヒットを記録(https://www.youtube.com/watch?v=1uh_aWqm2I0)。全世界にシャバルの名前がそのルックスとともに知れ渡ることになった。

 

 また、朴訥だが歯に絹着せないその人柄と普通のプロ選手とは一線を画すその経歴も、愛された理由。自動車修理工の父と宝石店の職人の母を持ち、質素な家庭で育ったシャバルが初めてラグビーと出会ったのは9歳の時。だが痛いだけだったラグビーはたった2ヶ月でやめてしまい、楕円球に再会したのは旋盤工として働き始めていた16歳の時。ルールも知らないまま、2人の友達に誘われて行ったその先で、ラグビー特有のチーム精神と練習後の仲間との「飲み」の雰囲気を気に入ったシャバルは、今度は2度とボールを手放すことはなかった。それでも、20歳でヴァランスのクラブに加入するまでは、シャバルにとってはラグビーは趣味でしかなく、旋盤工として働き続けた。以降は36歳の今日まで、トリコロールのジャージに袖を通すこと62回。セールでは2005年にヨーロッパチャレンジカップを制覇し、翌年にはイングランドプレミアシップ優勝。そして今季、リヨンを2部優勝に導き、トップ14へ昇格させた。

 

 2009年にはフランスの人気スポーツ選手ナンバー1に選ばれ、スケジュールの都合で最終的に断ることとなったが、クリント・イーストウッドは『インビクタス/負けざる者たち』へスプリングボクスの一員の役として出演を依頼。複数のCM契約とあわせ、年収はフランス人ラグビー選手としてはトップの150万ユーロ(およそ2億1000万円)を超えた。今日では多くのラグビー選手が企業の広告塔として起用されているが、その道を開いたのもシャバルだった。一方で、波のあるグラウンド上でのパフォーマンスと、その「スター」としての商業活動を絡めて否定的に捉える声も聞かれるようになったが、朴訥でインタビュー嫌いのシャバルは、プロフェッショルとしての姿を、黙ってプレーで見せ続けた。それは1m91㎝、113kgの身体で、7%の体脂肪率を維持していたことでもわかるだろう。元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リヴの「彼はチームの一員として振る舞える男だ。『スター』と呼ばれる存在になった今でも、それは変わらない。私たちは彼がただのラグビー選手だと思っているけど、それ以上のものだってことに気がつかされる」との言葉に、その人間性が現れている。

 

 あまりにも有名になり過ぎてしまったのと、フランスのサポーターはシャバルの選手としての全盛期であったセール時代のプレーを見ていないため、フランス国内ではどうしても人気先行のイメージがあるが、全盛期のプレーは、間違いなくラグビー史上最高、というより「最強」の1人のそれだった。

 

 代表時代の監督ベルナール・ラポルトに、「一番難しい道を歩んで、それでもそれを跳ね返すほどのエネルギーを注いでいた」と評された選手人生が日曜日に終わる。「リヨンでタイトルをとって引退できることがどれだけ幸せかわかってるよ。おれの身体と頭がノーと言ってるんだ。身体はぼろぼろだし、頭はもうこれ以上身体を苛めたがってない。それがすべてさ。前に進みたがっていない人間を押すことは出来ない。何度も自問したよ。クラブと代表で素晴らしいキャリアを築く幸運を得た。そして、それが終わる時は、受け入れないといけない。たぶん6月12日、他の選手がプレシーズンの練習を始める時、昔の仲間が駆けているのを見ながらちょっと感傷的になるかもしれない。ま、恋しくなるか、見てみよう」と語るシャバルは笑顔。

 

 引退後もクラブには相談役として残ることが決まっており、21歳で加入したブルゴワン時代以来の親友であり、代表とラシン・メトロ、リヨンでのチームメイトであるリオネル・ナレと共同経営するレストラン、自身が設立した服飾ブランドRuckfieldの経営に加え、クラブの主要株主であるイベント会社での仕事も待っている。「これからの人生が、スポーツ選手としてのキャリアと同様に豊かなものだと信じているよ。チームとしての仕事を続けていきたい。どちらにしろ、オレは独りじゃ何も出来ないし」。そう語るシャバルの瞳は、16歳で初めてラグビーの真の魅力に気がついたときと同じなはず。自分自身はリヨンとの契約を1年延長したナレが最高のオマージュを送る。「憶えているのはいくつかのタックルと、あのパワー。それと、初めてブルゴワンに来た時のあいつかな。あれ以来、おれたちの友情は何も変わらない。有名になっても、あいつという人間は何も変わってないよ」。

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