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スプリングボクス95の暗い影 —インビクタスはドーピングしていたのか—

2014/03/26

 1995年、母国でウェブ・エリストロフィーを掲げたスプリングボクスは、アパルトヘイト廃止間もない南アフリカの融和の象徴となった。あれから20年余り、「虹の国」のヒーローたちを今、ドーピングという名の暗い雲が覆っている。

 

 3月23日に、フランスの公共放送であるフランス2の「Stade2」という毎週日曜の夕方に放送されているスポーツ番組のなかで、あるルポルタージュが放送された。90年代に南アフリカ代表に選ばれていた元選手の間で、運動ニューロン病の症状を示す割合が通常の場合に比べて極めて高いこととドーピングの関連性を検証したものである。

 

 取材班が南アフリカに渡ったのは今年1月。ワールドカップ開催当時の大統領であり、マディバと呼ばれ国民から深く慕われたネルソン・マンデラが亡くなったのが昨年12月5日。このタイミングは、当然偶然ではないだろう。いかにルポの制作者であるニコラ・ジェイが「タブーとされている題材の扉を開きたい」と言っても、マンデラの生前にはやりにくかった取材だったのは否めない。取材班は、優勝時のスクラム・ハーフ、ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼン(43歳、代表歴1993—2003、89キャップ)をはじめ、アンドレ・ヴェンター(43歳、1996−2001、66キャップ)、ティヌス・リニー(44歳、1994年まで代表)らに、直接インタビューを試みている。ヴェンダーは2006年以来、100万人に1人の割合といわれる横断性脊髄炎を患い足の自由を失い車椅子生活を余儀なくされ、ヴェストハイゼンとリニーは、ルー・ゲーリック病の名で知られる筋萎縮性側索硬化症に冒されている。こちらも10万人当り4人前後の発症率という稀な病気である。また2010年には、南アフリカ史上最高のフランカーといわれ、95年ワールドカップの準決勝のフランス戦で決勝トライを決めたルーベン・クルーガーが、脳腫瘍のため39歳の若さでこの世を去っている。

 

 「元気だよ。ありがとう」と、車椅子から一言一言絞り出すように答えるヴェストハイゼンの言葉を聞き取るのは容易ではない。当時世界最高のスクラムハーフと称された男は、「一番辛いのは、子供たちをこの腕に抱くことさえ出来ないこと。でもそれ以外は幸せだよ」と打ち明けるが、病の原因について訊かれると、ただ「分からない。誰にも分からない」とだけ答えた。同様に車椅子生活のリニーの病状はヴェストハイゼンよりも進んでおり、もはやしゃべることも出来ないが、ドーピングがあったかの質問にははっきりと首を振った。代わりに答える妻のディアナは、「呪いだとは思わないけど、もし私の意見が聞きたいのならば、病気に関してはラグビーと関係があると思う」と言う。自身の息子もスプリングボクスを目指す中学生であるヴェンターは、いつか病状が回復する日を願って、毎日足のリハビリを続けている。病気の特別な理由は思いつかないと言い、ドーピングの可能性については「禁止薬物を提供されたことはない。煙草も吸わないし、一番身体に悪かったものと言えば、ビールくらいだよ」と否定する。

 

 なぜこの時期の元南アフリカ代表選手の間にだけこういった病が高い確率で見られるのか。専門家が指摘する原因は以下の3つ。激しい接触の繰り返しによる後遺症。グラウンドに撒かれた殺虫剤。そしてドーピング。「インタビューした多くの人間が、南アフリカにはドーピングの文化は存在しないと言うのに、カメラを切ったとたん、『ここでは若い時から始まってるよ』と言った類いのことをいうのを良く聞いた」とニコラ・ジェイは証言する。実際、昨年南アフリカでドーピング違反を犯した10人のうち4人は未成年だった。

 

 90年代始め、ラグビーは未だプロ化されておらず、反ドーピングのシステムも初期段階であり、ましてアパルトヘイト直後の南アフリカの政治状況を考えれば、スプリングボクスがワールドカップで演じる役目は信じられないほど大きく、低迷期にあった南アフリカ代表がドーピングをしない方が不自然とまで考えられる。当時のチームキャプテンであり、マンデラから直接ワールドカップを受け取ったフランソワ・ピナールは、毎試合前にチームドクターから渡され必ず摂取していたという錠剤について簡潔に証言する。「私たちはアマチュアだった。一生懸命練習していたよ。規則に反するようなことは1つもなかった。ただのビタミン剤だったよ。でもその後禁止薬物として指定されたので、私たちはすべてやめた」。「フランソワがいう錠剤っていうのは、ただのビタミンB12とか、そんなもんさ。おれは一度もドーピングに引っ掛かったことはない。だからそれ以外の何物でもない。おれたちはリミットを超えることはなかった。ビタミンB12の注射や、怪我の治療のためにも色々やったが、しょっちゅうコントロールを受けていたのに、誰も一度も陽性反応が出ることはなかった。」とコーバス・ヴィーゼ(49歳、1993−96、18キャップ)はピナールの言葉に続けた。

 

 ただこのビタミンB12、EPO(エリスロポエチン。赤血球の増加作用を持ち、持久力を高める。最近ではツール・ド・フランス7連覇のアーム・ストロングがこれを使用していたことでも有名)によるドーピングを行う時に、その効果を高めるために利用されることが近年の研究の結果分かっており、1995年段階ではEPOの検出は不可能であったことと、当時の異常なほどのビタミンB12の使用頻度、そして病気の発生率を鑑みると、ドーピングの疑惑を投げかけざるを得ない。「科学的見地から言えば、病気とドーピングの間には関係はない。ただ、私たちはこの問題を提起せざるを得なかったし、スプリングボクスによるEPOの仕様の可能性に関しても同様だ。現在新しいEPOの検出方法が研究されているが、はっきりしているのは、EPOを摂る度に効果を高めるために一緒に摂取されるのはいつもビタミンB12だということ。以上のことからだけで彼らがEPOを使用していたということにはならないが、注目すべき事実ではある」とニコラ・ジェイは説明する。

 

 フランス2でラグビー解説を務め、この日番組のゲストとして招かれていた元フランス代表のスクラムハーフであるファビアン・ガルティエが、6ヶ月ほどの自身の南アフリカでの体験を最近上梓した自伝の中で語っている。「朝起きるとすぐ、ドクターが『ビタミン、ビタミン!!』と叫びながらドアを叩きにくる。部屋に入ってくるなり、ベッドで俯せになっているスミットの尻に注射をし、同じものをおれにも勧める。おれは断る」。それが当時の日常だったと。ただ、同じ時代を生きたラガーマンとして、彼らを責める気になれないガルティエはこう語る。「忘れちゃいけないのは、当時彼らはアマチュアだったこと。お金をもらってラグビーをしていたわけじゃない。ただ国のために、名誉のためだけに、そのためだけにスプリングボクスでプレーしていた」。また、南アフリカでの医者の言うことは絶対であるという風潮を指して「『ビタミン剤が欲しいか。飲めばもっと調子よくなるぞ』と医師から言われて、それを使用したからといって、それはドーピングという言葉とは違う。医師は、治療し、必要なものを与えるためにいるのであって、選手は与えられた物が何であったかはまったく知らなかった。おれにとっては、これはドーピングとは言えない。それよりも投毒と言った方がいい。重要なのは、医師本人が、自身が選手に与えていた物が何であったかを知っていたかどうかだ」。ニコラ・ジェイは、デリケートなテーマにも関わらず、関係者はすべて取材を受け入れてくれたと証言している。ただ1人、1995年当時のスプリングボクスのチームドクターを除いては。

 

 1995年6月24日。ピナールが「初めて人種、宗教を問わず、すべての人々が一緒に喜び合い、踊り合った」と表現する、ワールドカップ優勝を決めたあの日。今ある「虹の国」は、スプリングボクスの緑のジャージを着たネルソン・マンデラが、フランソワ・ピナールにワールドカップを手渡すあのシーンがなければ存在し得なかっただろう。一方で英雄たちは国のために代償を支払う。ヴェストハイゼンもリニーも、余命は持って2、3年。「死ぬのは怖くない」と2人は言葉を同じくするが、リニーの妻は「彼ではなくて、私が怖い」と心情を吐露する。怖いのは死んでいく者だけではない。ドーピングとは無関係を装っているラグビー界。若年層からの教育も含めて、今一度そのあり方を見直す時が来ているのかもしれない。

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